会社を潰さない事業承継のポイントBlog › 

三浦少年が社長になるまで

我慢

世の中、すべてのことが自分の思い通りにいくことはあり得ません。

むしろ、思い通りにいくことのほうが何かの間違いではないかと思うくらいの

確率でしょうか。

思い通りにいかない現実を受け入れるということは何かしらの「我慢」をする

ということです。「我慢」をすることを知らない人は物事が成就するという結果

には辿りつかないものです。

産まれたての赤ちゃんに全く無いものは「他人を思いやる心」です。

自分自身が生きることに精一杯であり、それは仕方のないことなのですが、

成長とともにまた社会というものを触れ合うことで「我慢」ということを覚えます。

「他人を思いやる心」には何かを我慢することが必須であり、「我慢」ができる

環境は大切なことです。




後継者になるということはそもそも「我慢」が人一倍できなければいけません。

時として自分のやりたいことや夢を我慢することが後継の入り口であったり

します。そして、自分自身が社長となるべきスキルを身に着ける為の修練は

我慢の上に成り立っています。

我慢をすることが出来ない後継者は絶対に後継者になれないと思うのです。




しかしながら、我慢ばかりしていてもそもそもつまらないものですし、

「自分」というものが埋もれてしまいます。

ワガママの度合いはあるのですが、ワガママもまた経営者にとって大切な

スキルだと思うのです。

但し、我慢の上にあるワガママでなければ周りの人はついてこなくなります。

我慢ということが先にくる事業承継において「我慢」比べは、受け継ぐ側と

受け継がれる側との真剣な勝負であってほしいものです。



» 我慢

遊びの重要性

私の学生時代は決して順風満帆ではなく、高校受験を失敗し、大学受験も

現役で失敗し、浪人することに。

そして、浪人時代は本当に精神的にも辛く、勉強することからも、生きていくこと

からも半ばあきらめていたような状態でした。今でも浪人時代に見た真夏の

灼熱の太陽が「鉛色」に見えたことは忘れませんし、それがあの当時の心持ち

だったのでしょう。

そのような心持ちでうまく行くはずもなく、浪人時代に合格した大学は一つも

ありませんでした。父親からは「2浪は絶対にダメ」と言われていたし、私も

全くと言っていいほど、勉強する気がなかったので、自分の行く末を決めなければ

ならない緊急家族会議がどこにも行くあての無くなってしまった私の為に

行われました。

私は「働く」といいましたが、父親がそれは「ダメだ」と。

「遊べ」と言われました。

働くことは長い人生において、これからいくらでも出来る。しかし遊ぶことは

若い間しかできない。そして遊んだ経験がない人は人生が窮屈になって

しまうということを諭されました。無試験で入れる専門学校に

2年間行くことになり、言いつけ通りしっかりと遊ばせて頂きました。

結果的にこの2年間にしっかりと遊んだことが、本当にその後人生において

いかに重要なのかと今はしっかりと理解できます。

クルマのハンドルにも「アソビ」があります。

このアソビがあるおかげで、少々のことに敏感に反応せず、安全な運転が

出来るのと同じなんだと思うのです。




組織のトップになる人にもしも「アソビ」がなかったら、それはそれは窮屈な

会社になってしまうはずです。社員のわずかミスに叱責をし、権限さえも

小口の決済権も権限移譲しなければ、鉛筆一本を買うにも上司の決裁が

必要になってしまいます。

「アソビ」を知る為には遊びをしていなければ、人間的な余裕からくる

アソビの部分は絶対に生まれません。

事業承継において「遊び」が重要なのです。








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子供の頃の夢

私の子供の頃の夢は「電車の運転手」になることでした。

幼稚園の時に書いた絵には「しょうらいのゆめ」として

「しんかんせんのうんてんしゅ」と書いたことを今も記憶しています。

子供の頃に憧れた職業に大人になって就いている人というのは

一体どれくらいいるのでしょうか。

おそらく、100人に一人、1000人に一人くらいなものでしょうか。

そのくらい現実的に厳しいのですが、夢を見ない人よりも、

夢を見ることの出来る人の方が魅力的に感じます。




企業の後継者も、私のようにかつては多くの夢を見ていたはずです。

現業の仕事とは全く違う仕事に就いていた方もいらっしゃいます。

後継者になるということはある意味、夢を捨てることであり、

経営者として新たな夢を描くことだと思うのです。

大切なことはこの「転換点」で絶対に転換するいう覚悟が大切です。

というよりも転換しなければ、事業承継は失敗したと言えるでしょう。

新たに社長になっても、かつて夢を見たことを追いかけてしまえば、

会社経営に力が入らなくなるのは当然ですし、やはり、その気持ちが

そこで働く社員に伝わってします。特に社長としての経験が未熟な期間に

邪念は必要ではありません。




しかしながら、子供の頃の夢を完全に捨てる必要もないと思うのです。

経営者として成熟して余裕が出来たら、子供の頃の夢もまた、叶う可能性が

グンと上がっていくのです。

それが、企業経営者の役得であり、成功者の特権です。

子供の頃の夢を最終的に叶える為に、事業承継できたら、それを「理想」

と呼んでも良いと思うのです。







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親子喧嘩から社長に。

私は30歳と8日目で社長に就任しました。正直に申しまして自分でも予定よりも

かなり早いと思いました。創業社長なら20代の社長も珍しくはありませんが、

弊社は花屋としては私で4代目。葬儀社としては2代目という歴史があり、

そろそろ老舗と名乗っても怒られないくらいの歴史になっていました。

そのような背景の中での社長交代。実はこれほど早くなったきっかけは

あることで揉めた親子喧嘩からだったのです。



私が28歳の時、当時GL(グループリーダー)という役職であり、世間の会社で

いえば総務部長的な仕事をしていました。先代である父は長年、自分が

強力なリーダーシップを発揮して部下をグイグイ引っ張っていくタイプの

経営者で(創業社長にはこのタイプが多い)組織は「社長と部下」という

組織でした。いわゆる中間管理職というものは全く不要でした。

カリスマ的な要素を持ち合わせていましたし、家族経営から会社経営と

家業から企業に成長させた功績を考えるとそれが一番正しかったのでしょう。

しかし、当時、長年会社で働いてくれる社員が皆無でした。

社員の会社に対する不満を聞いている内に、原因が何か解ってきました。

それは入社一年目の社員と入社10年目の社員の基本給が一緒であった

ということです。つまり給与が同じだったのです。社長が親や社員が子で

ある以上、長男も次男も三男も親として平等に接するという考え方が当時の

社長の考え方でした。「社長と部下」という組織の象徴でした。

もちろんこの政策の良いところもあるのですが、当時は入社1年目の社員に

対して「給与が一緒なんだからもっと働け」といっていじめたり、

給与が上がらないから憂う、将来のことに対する不安が中堅社員以上に

蔓延していました。

結果、5年以上在籍をすると辞めていく社員が後を絶ちませんでした。




私は修業ということでサラリーマン経験を三年させて頂きました。

その経験で思ったのはサラリーマンというものは同僚の給与が非常に気になる

という心理です。たとえ1000円でも後輩社員よりも多く貰っていないと気が

済まない。同期の社員との給与の格差はショックを受けるのです。

その体験をした私からすると基本給が入社10年目の社員と一年目の社員と

同じということはあり得ないのです。

そのことを先代に改善の進言をしました。しかし、「社長と部下」という組織の

観念から、また長年の慣習からなかなか受け入れて貰えません。

いつしかこのことが原因に喧嘩になってきました。

「そこまで言うのなら、おまえが社長になってからやれ」

「おうやったるわ」

というまさに売り言葉に買い言葉で30歳で社長になることになって

しまったのです。

今から思えば、先代は事業承継のタイミングを狙っていたところに、私が

まんまと嵌ってしまったのかもしれません。

それはそれで、結果オーライでした。結局のところ、前述の給与の問題は

私が社長に就任と同時に基本給の改革をして今に至っています。

同時に「社長と部下」という組織から課長・係長・主任という役職が新たに

誕生し、中核を担う社員がそれに就き結果的に給与を若手社員との差を

作ることに成功しました。



事業承継と一言で言いますが、本当に難しいものです。

一番危険なのは受け継ぐ方が「やらさせてやってやる」という気持ちで

受け継ぐこと。これは絶対に失敗します。

その点、私の場合は喧嘩という手法が良かったのかということは別にして

言い切ってしまった以上、絶対に逃げられない状況を自ら作ってしまったのです。

「だから社長を辞められないのです(笑)」

結局のところ、先代からの良いことは引き続き継承していく。先代の悪いところは

思い切って変えていくという気概がなければ、船出から沈没してしまう危険を

孕んでいるのです。





















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